第9回 知れば面白い、小倉北区「手向山公園」
ちょっと分かりづらいけど実は・・・・・・
小倉から国道3号線を門司方面に向かう途中、丁度小倉北区と門司区の国境、いやいや区境に位置するのが、手向山公園である。
まあ、山とは言ってもそんなに高さがあるわけではない。そう、ザッと見た目で標高70m位か?まあ、山というよりも「丘」と言った方がいいかもしれない。
ここは、シーズンになると近所の保育園、幼稚園、小学校の遠足の場所となり、多くの子供達で賑わっている。
また、昼時となると営業車が集まり昼食をとるなどの「チョット一息スポット」となっている。桜の木も多いので、花見の時期には多くの花見客で賑わっている。
しかし、近所の人や一部のファンには知られていても、3号線を通る際、交通標識に標されていようとも、この山のような丘のような場所が、公園であろうとは考える余地はないだろう。
さらにこの手向山公園が歴史的に見て、重要なポジションにあったことを知っている人は、意外と少ないのではないだろうか。
今回は、そんな手向山公園の魅力を御紹介しよう。
実は海峡の西の要
この手向山、実はその昔「要塞」だったのである。
時は明治20年あたり、日本国を我が我が物にしようと、関門海峡に侵入しようとする敵艦船から国土を守るために砲台が築かれたのだ。
手向山の要塞施設は、明治32年制定の要塞地帯法により呼称された「下関要塞地帯」の中のひとつで、明治20年2月起工、明治21年9月に竣工し、手向砲台と呼ばれていた。今でも当時の面影を残した遺構が多数点在している。
そんな遺構を少し紹介しよう。
頂上には砲台座群跡や倉庫群跡が見られる。塞がれている倉庫の入り口の上の銘板を見ると起工、竣工が明治と記されており時代の流れを感じる。
山の中腹には探照台座跡がある。夜の敵艦侵入に備えて建てられたものだ。
敵艦を発見して照射、その情報を受けた砲台が敵艦に向けて射撃するのをサポートする施設だ。
他にも観測所跡等もある。
歴史を感じさせる趣の遺構達は一種異様な雰囲気を与え、明らかに違う時代の空間であることを認識させてくれる。
ただ、一般の公園と戦争遺構が共存していることは大変意味深いものがある。
実は武蔵も小次郎も・・・・・
手向山公園入り口付近に、歴史的人物の肖像画の看板が掲げられている。
その御人は宮本武蔵。ここ手向山公園は宮本武蔵に所縁のある場所でもあるのだ。
手向山の麓には宮本家の墓所がある。明治時代に手向山が要塞になるまでは頂上にある「武蔵顕彰碑」の横にあったと言われている。
その高さ4.5mの石でできた「武蔵顕彰碑」は宮本武蔵の養子で、小倉藩筆頭家老にまでなった宮本伊織の建てたもので、「小倉碑」とも呼ばれるその数、千文字以上の漢文が刻みこまれた石碑だ。
その「武蔵顕彰碑」の近くには、佐々木小次郎の「小次郎碑」がある。
これは1951年、村上元三の小説「佐々木小次郎」の完成を記念して建てられた物だ。
関門海峡にある巌流島で闘った武蔵と小次郎。その関門海峡を見下ろす手向山に今両雄はいる。二人はどんな会話を楽しんでいるのだろう。
手向山公園では、1612年4月13日の巌流島の決闘を記念して、その日に近い日曜日に「武蔵・小次郎まつり」が開催されている。
実は山も海も楽しめる
山道を登って行くと、あっという間に頂上に着く。さすがは丘のような山だ。
まあ、そんなに広いとは言えない公園だが、遊具施設もありキチンと整備をされている。
また、要塞と一体化しているのも面白い。
ここは、どちらかというと「遊ぶ」公園ではなく、自然と戯れる公園だ。
頂上までは車でも登れるが、森林浴を楽しみながら歩いて登る人の方が多い。
途中途中で眼下の関門海峡を望めるビュースポットがあるからだろう。
確かに木陰から望む関門海峡は美しい。荒んだ心を癒してくれる。
あっ、みなさんは荒んでない。
失礼しました。
さらに心を癒してくれるのが頂上に設置されている2基の展望台からの眺望だ。
公園東側にあるのは木製の展望台。関門海峡から大里の街が一望出来る。
中央にあるコンクリート制の展望台からは、はるか彼方の関門橋から響灘、小倉の工場群を堪能できる。
面白いのは背には山々、目の前には関門海峡という海から山までの距離があまりない地形。
山と海を同じに楽しむことができる場所等そうそうあるものではない。
また、ここからは街の「音」を楽しむこともできる。
列車や自動車の走行音、船のエンジン音、工場の作業音、関門海峡の音など様々な音が聞こえてきて、生きている街の息吹を感じさせてくれる。
実は時の街角
現在を見下ろしながら過去を想う。過去を想いながら現在を見直す。
そして未来を。手向山公園は、それぞれの時空をつなげる、そんな公園なのかもしれない。
ライター/碇 義彦