第10回 先人が後世に残した偉跡 猿喰新田・潮抜け穴
目的地「猿喰」へGO!
わくわく探検隊の取材の為、北九州都市高速道路を小倉から門司方面に向けて走っている。
しばらくすると左手には大型船舶の行き交う関門海峡が見え、右手には霊峰戸の上山が海峡の安全を見守るようにそびえ立っている。
風景に気を取られていたら、アッと言う間に降車地点「大里IC」に到着。ICを出て、寺内交差点を左折し新門司方面に向かう。
戸の上山の中腹を通る急カーブの多い道路を進み、丁度登り詰めた所に鹿喰トンネルがある。面白い名前のトンネルだ。と言っても読めるかな?
鹿喰と書いて「かじき」と読みます。
そのトンネルのちょっと東側の奥手にある山は猿喰城跡。で、これも読める?
猿喰と書いて「さるはみ」と読みます。鹿を喰う、猿を喰う、とは面白い。
今回はこの言葉を追求します!・・・・・・・・・・・ではありません。
話を戻して、その鹿喰トンネル抜けると前方には苅田港沖に浮かぶ、北九州空港が見える。こう見ると門司から近い。
しかし大里ICから5分ほど、チョット走っただけなのに、あたりはのどかな田園風景。これも良いか悪いか、中間色のない北九州市ならではの醍醐味かも知れない。
さて、再度話しを戻そう。しばらく走ると左は下関・黒川、右は曽根の標識。向かうのは下関・黒川方面。3分も走れば今回の目的地に到着だ。
ここは北九州市門司区猿喰新田。(読めるね!)今回はこの猿喰新田を探検だ~い!
猿喰を愛した男
門司学園の前に大きな碑が新田を見渡す、いや見守るかのごとく荘厳に建っている。
ここ猿喰新田の創始者である石原宗祐の碑だ。
江戸時代の中期、ちょうど今から250年ほど前、梅雨の長雨が冷夏をもたらした。
そのために害虫が大量発生!中国、四国、九州地方は大凶作に見舞われた。
これを、江戸四大飢饉の一つに数えられる、享保の大飢饉という。
この飢饉では約250万人の人達が飢餓で苦しみ、約12,000人の人達が餓死したと言われている。
猿喰地区も例外にもれず、多くの人達が飢饉で苦しんでいた。
そんな人達を救うために村の名手であった石原宗祐は、庄屋を辞めて私財を投入して猿喰海岸の干拓事業を行い、難工事の末に完成したのがこの猿喰新田だ。
その偉業を称え、後世に伝える為にこの碑は建てられたのだ。宗祐は97歳で亡くなるまで地域社会の発展に貢献したと言う。
その碑文のなかに「私財をを投じて実の弟資達氏と協力しこの大事業をなしとげ当時の猿喰村を築き上げた大人物である」という1文がある。
己の利益ではなく、多数の人の利益の為に動く。人が人を愛し、そして猿喰を愛していたからこそできた事ではないだろうか。
時代を想像する-堤防
ちょうど門司学園の横を、真直ぐに海に向かって伸びる堤防の道がある。その長さ約430m。
普通に見ればどこにでもあるような、ごく自然な風景なのだ。
しかしこの堤防が江戸時代に考案された物と知ればどうだろう。見る眼が変わるかもしれない。
ただ、残念な事に1953年の門司大水害で当時の堤防は決壊し、現在の姿となっている。
今でも護岸工事や水辺の工事は大変と聞くが、江戸時代の工事であればその難しさは今の比ではないだろう。
やはり工事は相当困難であったようで、石を積んだ船を沈めて、この長い堤防を作り上げたと言われている。
仮に当時の堤防が現存し、この言い伝えが真実であれば、掘り起こせば石を積んだ船が出てくると言うわけだ。残念!
時代を物語る史跡-潮抜き穴跡
さてさて、この猿喰新田にはまだまだ興味深いところがある。
干拓事業の際、湾(猿喰湾)を閉め切ったため、満潮の時には海水が堤防にできた隙間から潮溜池と呼ばれる遊水路に入り込み、高濃度の塩水が潮溜池にたまってしまった。
高濃度の塩水であれば当然人体に悪い。人体に悪い物であれば、作物にはもっと悪い。
その悪い塩水を抜くために作られたのが「潮抜き穴」と呼ばれる物だ。これがどういうものかというと、唐樋と呼ばれる、潮の満ち干きによって自然開閉する機能を持った排水用の水路のこと。
満ちた時は閉じ、干いた時には開いて、潮溜池に溜まった塩水が排水されるという優れ物。
この穴が“排水だけ”という所から「潮抜き穴」と呼ばれたのだ。
当時潮抜き穴は、堤防の両側に2基づつ作られ、現在は東側の2基のみが残り、当時の姿を確認出来る。
ちなみにこの潮抜き穴、2003年3月に北九州市指定文化財(史跡)に認定されている。
しかし驚くのは、潮抜き穴は岩盤をくり抜いて造られ、長さが30数メートルあるという。
当時の技術で岩盤をくり抜く等、至難の業であったのではないだろうか。意外とすんなりいったりして。
まあ、それはないとしても当時の状況を想像してみるのも面白いかも知れない。
偉大なる足跡
本当に、見た目はのどかな田園風景なのだが、あんな歴史が隠されていたとは感心した。
しかし長い歴史の中、1953年6月の門司大水害で、このあたりは甚大な被害を受け、4基あった潮抜け穴の2基が損壊。だが、幸いにも2基は損壊を免れることができた。
先人の偉跡が失われずにすんだ事は本当に喜ばしい事。さらなる周辺の整備を期待したいところだ。
ところで、今の世に私財を投げ打って人々の為に尽くす人がどれくらいいるだろうか。
私利私欲の為に動く人は多勢いるだろう。だから石原宗祐の功績は、これからもなお語り継がれてゆく必要があるのだ。
ライター/碇 義彦